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陽明山国家公園導いて見ます SiteMap
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設立と沿革


陽明山一帯は、日本時代には「大屯国立公園」の予定地であった。当時その範囲は、七星山、大屯山系および観音山が含まれていた。この計画は残念ながら第二次世界大戦の勃発で頓挫した。1963年、交通部観光事業小組が当時の台湾省公共工程局に企画を委託して、陽明山公園および周辺の七星山、大屯山、金山、野柳、富貴角などの北部海岸線を含めて、「陽明山国家公園」の設立を目指した。総面積は約28,400haと広大なものだったが、当時はまだ国家公園法が制定されていなかった。
1981年になって、何應欽将軍の提議によって、関連機関が研究を進め、1985年に正式に陽明山国家公園設置計画が公告された。そして1985年9月16日と翌年の3月13日に相次いで国家公園管理処および警察隊が開設されて、各方面の経営管理業務がスタートした。

 
 
位置と範圍
陽明山国家公園は、台北盆地の北端にあって、東は起●嘴山、五指山東側、西は向天山、面天山西麓、北は竹子山、土地公嶺、南は紗帽山南麓に接し、面積は約11,455haに及ぶ。行政区としは台北市士林区、北投区および台北県淡水、三芝、石門、金山、万里の郷や鎮にまたがる。海拔高度は200mから1120mの間に。
 
 
四季の風情
陽明山国家公園は、緯度および海拔の影響から、気候は亜熱帯気候区と温帯気候区に属し、季節風気候の性格が顕著である。
春季2、3月は、明山公園のお花見シーズンで、台北市政府工務局公園路灯管理処は、台北市警察局北投分局および士林分局と共同して花見シーズンのイベントと交通管制を実施している。色とりどりの各種秋季、10月頃になるとススキが一面の穂の海を形成するツツジが園内に咲き綻び、カンヒザクラが山を覆う。冬の陰影を吹き飛ばし、大地に化粧を施してくれているようだ。
夏季は西南の季節風の影響を受け、午後にはよく雷雨に襲われる。秋季、10月頃になるとススキが一面の穂の海を形成する。紅一点の楓、黄金の樹葉が山を彩り、名高い「大屯秋景色」を描き出す。秋の霧雨が晴れたときには、よく虹の橋が山や谷にかかり、雨後の陽明山はますますきれいである。冬季は東北の季節風の影響を受けて、陽明山一帯は寒風と霧雨に覆われる。低温高湿で雲に包まれ独特の風情をみせる。寒波が来襲すると、七星山、竹子山、大屯山一帯は粉雪が舞い、銀世界がお目見えする。
 
 
歷史と文化
陽明山はもともと「草山」と呼ばれ、大屯山、七星山、紗帽山に囲まれた山や谷を指していた。清代の光緒20年頃、「草山庄」は淡水庁芝蘭一堡に、日本時代は台北県、台北市にそれぞれ属していた。戦後、1949年に「草山管理局」が成立し、1950年に、明代の理学者王陽明を記念して「陽明山管理局」と改名された。1968年に台北市が直轄市に昇格したとき、本地区は台北市士林区および北投区に所属することになった。「陽明山」の名は今日に至るまで使われている。
かつて硫黄は火薬の主要原料として重視された。この硫黄を産することが陽明山の開発を促進させた。
記録によると、明代、商人はメノウなどと交換する形で当地の原住民から硫黄を手に入れたと見られる。清代康熙年間には、大陸から海を越えて台湾に渡り硫黄を採掘した。その足跡は、北投の行義路、陽投公路、紗帽橋、その中間の大●嘴硫気孔にまで至っている。康熙同治年間には、民間で私製火薬が作られるのを避けるために、採掘を厳禁し、定期的に山を焼いたという。光緒年間、劉銘伝によって硫黄の採掘は官営となった。事実上の解禁である。七星山一帯は硫黄採掘の中心
採掘が再開されて、七星山一帯は硫黄採掘の中心となり、漢人がしだいに北上してきて、大屯山およびその周囲の開発が進んだ。客家人、泉州人、●州人が相次いでこの地域に入り、茶畑、野菜畑を開き、陽明山農業の基礎を作った。
日本時代、この一帯に黒松、相思樹、楓などを植え、温泉を掘り、公衆浴場を設置した。観光開発の始まりとも言える。
今日、陽明山の伝統的な農業はしだいに沒落し、代わって観光の側面をもった花卉栽培や商業作物の植付けが盛んになった。
 
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