陽明山の探索
陽明山の探索
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歴史

考古学者の研究によると、台北盆地には先史時代にすでに人が居住していました。紀元前10,000年~3,000年の間、盆地辺縁の近海地区に「大坌坑文化」が出現しました。縄蓆文土器や発達した磨製石器を特色とし、当時の人々は狩猟、漁、採集を行い、生活していました。また、穀類や一部果物、野菜等の植物の栽培も知っており、食物としていました。「大坌坑文化」の後、本地区には続いて「円山文化」と「十三行文化」が出現しました。「十三行文化」は紀元前後に相当し、徐々に石器時代から離脱し始めた段階で、鉄器やガラス製装飾品、幾何学模様の土器などが出現しました。陽明山国家公園周辺の芝山岩、石牌、北投、関渡、淡水、金山等の場所では、過去に先史時代から残る石器や土器が出土しており、陽明山地区でも竹子湖で石斧、石鏃(矢じり)等の器具が発見されているため、少なくとも2,000年前に本地区に人類が出現した足跡があることが推測できます。しかし、付近の火山硫黄ガスの影響を受け、居住にはあまり適さないためか、人類の活動は頻繁ではありませんでした。

日本統治時代陽明山から竹子湖に桜を植栽
日本統治時代陽明山から竹子湖に桜を植栽


早期の原住民の地域分布は、平埔族のケタガラン族がかつて北部淡水、基隆一帯の海岸地区に居住しており、明朝万暦年間には、漢人が船で本地区に入り、メノウ、腕輪、絨毯などの物品との物々交換でケタガラン族から本地区特有の硫黄を得ていました。西暦1626年、スペイン人が台湾北部を占拠しました。彼らは漢人の本地区への移住と開墾を奨励したほか、積極的に現地の資源開発を行いました。その中に基隆の煤と北投の硫黄が含まれ、硫黄は火薬製造の主要な原料であるため、現実的な需要の下、北部地区の硫黄採取活動も続いて行きました。台湾が清朝の統治となってから、大量に移住した漢人が北部地区の開発をさらに加速させました。淡水河口に位置する旧名を霊山廟といった関渡宮は、当時川を遡って入山し、硫黄採取を行なっていた労働者を守ることを祈願して建てられました。

清の康熙36年(西暦1697年)、清朝政府は福州火薬庫の火災によって、50余万斤の黒火薬を一度に失ったため、浙江籍の探検家、郁永河を廈門から海を渡って台湾に派遣し、硫黄採取に当たらせました。郁永河は台湾西海岸に沿って北上し、八里から川を渡って淡水に、さらに淡水から船で川に沿って台北盆地に入り、北投付近に到達して硫黄採取と精錬の作業を行いました。台湾に合計7ヶ月余りの時間停留し、中国に戻った後「裨海紀遊」という書物を書き、台湾での見聞を記録しました。その内容は非常に詳細で、300年前の台湾社会の民情を理解するためにとても役立ちます。

郁永河が採取した硫黄孔は、北投の惇敍高工大磺嘴一帯を指すと推測され、本処の龍鳳谷管理センター入口横には石碑があり、郁氏が硫黄を採取した事跡について記載されています。

最後の日付の更新2017-10-23