1本の道の物資輸送の移り変わり
金包里大路はその昔交通輸送機能があり、よく知られた嫁入りの活動のほか、その他の経済活動も盛んで、魚や茶葉、硫黄の輸送、さらには牛の輸送もこの道に頼っていました。金山、万里、石門は北海岸に位置し、早期は魚業活動が活発で、牽罟(伝統的な岸から網を大勢で引く漁法)または魚船の作業で得た魚獲を問わず、陽明山地区さらには士林一帯に売りたい場合は、水路で淡水を経て士林に向かう以外、陸路は金包里大路を通る必要があったため、この道を「魚路」と呼ぶ人もいます。大東亜戦争時期は物資の管制が行なわれ、多くの人が暴利を貪ろうとリスクを承知で魚の売買を行なっており、当時はこれを無許可の取引を指す日本語で「闇取引」と呼び、「走Yami」という言い方もありました。警察を避けるため、魚売りは夜間に行動し、夜7時、8時頃になると金山を出発し、夜中の12時頃に山猪湖、山仔后一帯に着き、朝を待って魚を売る準備をしていました。
魚売りは多くが軽便なシャツに半ズボン、頭には笠をかぶり、草履または足袋、さらには裸足でした。手には灯油ランプ、アセチレンランプまたは松明を握り、大変な思いをしてこの険しい山道を歩いていました。
陽明山地区の茶は清朝中葉から栽培が開始され、日本統治時代には大量に栽培が行なわれていました。この輝かしい茶業の歴史は、今日ではもう目にすることはなくなり、早期の茶の樹も森林の中に数本残っているだけとなりました。日本統治時代台北州の茶の生産企業は13社もあり、茶園は多くが北海岸と金包里大路の沿路に分布していました。生産された荒茶が袋に入れられて台北地区の精製所に輸送され、石門阿里磅から三重橋、さらに大嶺へ上り士林に到達するまでのこの路線は主要な輸送ルートの一つであり、三重橋で金包里大路と交わっていました。
農村社会時代は、田畑での作業は主に牛に頼っていたため、牛の販売業が盛んになりました。金山、石門、万里一帯は、大嶺から山仔后を通り士林一帯へと販売に行っていました。大嶺(擎天崗)はちょうど金包里大路の中間点にあり、草原が広がっているため、日本統治時代には牧場がありました。
陽明山地区の硫黄の採取は清朝時期にさかのぼり、1990年頃になってやっと採取が停止されました。硫黄の輸送は早期人力による運搬に頼っており、鉱物の担ぎ手は朝4時すぎにまず山仔后の石炭店で焼炭と焼炭伝票を受け取り、7~8時に大油坑まで担いでいって鉱塊(重さ約48kg)と換え、かつ鉱伝票を受け取った後山仔后へ戻り、天母を通って北投へ行き、鉱伝票を提出して日給(米約6kg)を受け取っていました。現代と比較すると、昔の担ぎ手は大変な苦労をしていました。