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金包里大路は金山と士林を結ぶ1本の歴史古道

記憶

200余年前のある日、天母から金山への道で、にぎやかな太鼓が聞こえてきます。それは麻少翁集落の遠生と金包里社の林業を営む家の娘の婚姻でした…100余年前なると、一人の台湾で自然研究に従事する博物学者郇和(R. SWINHOE)が陽明山で調査を行なったときの記述(1858年)があります。「これはとてもよい道だ。沿路には河谷と峡谷がある。山腹を横切る一本の小道の横にはおいしくて冷たい水が流れており(八煙圳)、水の流れはとても速い。向かい側には山壁が高く聳え立ち、草のない爆裂火口からは絶え間なく灰色の煙が吐き出される(大油坑)。1本の河流(上磺渓)を渡り、急な山道を通っていくと、硫黄区に到達する…足の下は砕屑地である。この荒涼とした地を離れ、別の道を前方に進み、とても高い山を登り、平淡な草原(擎天崗)を通り抜け、草原辺縁に近づくと、遠くに淡水河が見える…」。

時間をさらに1895年に台湾が日本に割譲されたときまで進めます。当時全島各地で武装した義勇軍の抗日が続いており、中でも陽明山区の簡大獅とその部下たちが最も当局の頭を悩ませました。しかし、援助も民衆の支持もない情勢の下、後に日本側が招降政策を提示したこともあって徐々に瓦解し、崩壊しました。いわゆる招降政策とは、免罪と共に就業機会を提供するほか、事業資金の提供等の優遇条件のことを指します。こうして簡大獅は1898年に招降に応じ、道路(焼庚寮---山仔后---山猪湖)を切り開く作業に就くこととなりました…。歴史の軌跡を辿っていくと、早期の陽明山には金山までの近道の山道があり、昔は金山と陽明山、さらには金山と士林、北投、天母の間を結ぶ嫁入りの道として利用されていたこと、そして郇和の調査の記述もこの士林---金山の道路沿線のいくつかの場所または景観スポットに呼応していることなど、いくつかの脈絡をつなぎ合わせることができます。簡大獅とその部下が道を開いたことも日本統治時代の士林---金山間の道路建設事情を説明しています。

 
金包里大路

「草山風、竹子湖雨、金包里大路」は従来陽明山の風景を形容した台湾語のことわざです。金包里大路とは河南勇路を指し、日本人が道(日人仔路)を開く前、河南勇路は士林、金山の主要な交通幹線でした。いわゆる大路とは、沿線に石の塊を敷き詰めただけのもので(右図参照)、路面は狭く、車両や馬が通ることも困難なものですが、当時、これらの大路は現代の公道に相当するもので、交通輸送等の重要機能を担っていました。河南勇路という言葉は、大嶺(擎天崗)付近に清朝時に中国大陸の各省から台湾防衛に派遣された兵の「河南営」という軍営があり、後に台湾語でこれらの兵をまとめて「河南勇」と呼ぶようになったことに由来しています。当時は台北府と金包里の二地を移動して警備を行なっており、そのときに通るルートは大嶺、山猪湖のルートが最も近く、沿路が定期的に保守されていたため、当時「河南勇路」という名前が生まれました。

 

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<p class="indent">200余年前のある日、天母から金山への道で、にぎやかな太鼓が聞こえてきます。それは麻少翁集落の遠生と金包里社の林業を営む家の娘の婚姻でした…100余年前なると、一人の台湾で自然研究に従事する博物学者郇和(R. SWINHOE)が陽明山で調査を行なったときの記述(1858年)があります。「これはとてもよい道だ。沿路には河谷と峡谷がある。山腹を横切る一本の小道の横にはおいしくて冷たい水が流れており(八煙圳)、水の流れはとても速い。向かい側には山壁が高く聳え立ち、草のない爆裂火口からは絶え間なく灰色の煙が吐き出される(大油坑)。1本の河流(上磺渓)を渡り、急な山道を通っていくと、硫黄区に到達する…足の下は砕屑地である。この荒涼とした地を離れ、別の道を前方に進み、とても高い山を登り、平淡な草原(擎天崗)を通り抜け、草原辺縁に近づくと、遠くに淡水河が見える…」。</p>
<p class="indent">時間をさらに1895年に台湾が日本に割譲されたときまで進めます。当時全島各地で武装した義勇軍の抗日が続いており、中でも陽明山区の簡大獅とその部下たちが最も当局の頭を悩ませました。しかし、援助も民衆の支持もない情勢の下、後に日本側が招降政策を提示したこともあって徐々に瓦解し、崩壊しました。いわゆる招降政策とは、免罪と共に就業機会を提供するほか、事業資金の提供等の優遇条件のことを指します。こうして簡大獅は1898年に招降に応じ、道路(焼庚寮---山仔后---山猪湖)を切り開く作業に就くこととなりました…。歴史の軌跡を辿っていくと、早期の陽明山には金山までの近道の山道があり、昔は金山と陽明山、さらには金山と士林、北投、天母の間を結ぶ嫁入りの道として利用されていたこと、そして郇和の調査の記述もこの士林---金山の道路沿線のいくつかの場所または景観スポットに呼応していることなど、いくつかの脈絡をつなぎ合わせることができます。簡大獅とその部下が道を開いたことも日本統治時代の士林---金山間の道路建設事情を説明しています。</p>
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<div class="page-subarticle">金包里大路</div>
<p class="indent">「草山風、竹子湖雨、金包里大路」は従来陽明山の風景を形容した台湾語のことわざです。金包里大路とは河南勇路を指し、日本人が道(日人仔路)を開く前、河南勇路は士林、金山の主要な交通幹線でした。いわゆる大路とは、沿線に石の塊を敷き詰めただけのもので(右図参照)、路面は狭く、車両や馬が通ることも困難なものですが、当時、これらの大路は現代の公道に相当するもので、交通輸送等の重要機能を担っていました。河南勇路という言葉は、大嶺(擎天崗)付近に清朝時に中国大陸の各省から台湾防衛に派遣された兵の「河南営」という軍営があり、後に台湾語でこれらの兵をまとめて「河南勇」と呼ぶようになったことに由来しています。当時は台北府と金包里の二地を移動して警備を行なっており、そのときに通るルートは大嶺、山猪湖のルートが最も近く、沿路が定期的に保守されていたため、当時「河南勇路」という名前が生まれました。</p>    </div>  </div></div></div></div></div></div>