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現代と原始が並存する冷水坑

冷水坑は清領中期にこの地名があり、付近には静寂な碗口状の小さい爆裂火口があって、火口内には脈々と絶えることのない低温の温泉が湧き出ているため、この名が付けられました。
嘉慶、道光年間は茶葉のほか、藍染産業も極めて盛んであり、この地区付近の渓谷の横では農民が大量の大菁(藍染の原料)作物を栽培し、藍色の染料を取り出していました。平坦な場所ではサツマイモや雑穀等の作物が栽培され、現今の森林辺縁または底層にはまだ茶の苗や大菁の群落が残存しています。近隣の山地の斜面および竹篙山一帯では、早期の茶園のほか、かつては広く桂竹、緑竹、孟宗竹等を植えた竹園があり、竹材は屋根や壁の建築、農具、竹ざるおよび竹籠等の容器及び竹ちりとり、竹ぼうき等に使用され、たけのこは食用に供されており、これらが先人の生活を豊かにしていました。現今はプラスチック工業が発達したため、すでに竹材を使用する人は少なくなりました。
冷水坑ビジターサセンター下方の田園景観区は、先人が生活のためにサツマイモや雑穀を栽培していた場所で、また産業の変化に伴って茶葉や大菁、稲等の作物が栽培されていたこともあります。 1985年に陽明山国家公園が設立されて以降、当地の農民は徐々に野菜から園芸植物の栽培を主とするようになりました。 冷水坑地区は金山断層と崁脚断層の間に位置し、冷水坑温泉の付近には、沿路活動が激しい火山爆裂火口、噴気孔、硫気孔があり、付近の岩層は硫気の薫染を受けて極めて崩落しやすくなっています。また、付近は水源が豊富で、絶えず地底に浸み込みマグマの熱源によって加熱されることで、この地区の絶えることのない温泉が形成されています。さらに、硫気孔と熱水変質作用の影響で、この地区では豊富な火口硫黄、鉱染硫黄、硫化鉄鉱、瓷土鉱、白土鉱、地熱エネルギー等が形成されます。一時は鉱物の採掘が盛んで、日本統治時代には冷水坑の硫黄鉱はすでに陽明山硫黄採掘の重要鉱場となっていました。
冷水坑の鉱床は主に沈殿型の硫黄鉱床を含み、この沈殿型の硫黄鉱は火山爆裂火口の湖底盆地内に形成されています。現在も湖内には常に冷泉が湛えられ、かつ硫気等のガスが絶えず噴出しており、硫黄の沈殿が形成されています。
1957年頃瑞永鉱業公司の保安管理員、張玉龍氏が口述したところによると、当時硫黄炉は5基以上あり、毎日30人の作業員が順番に燃焼させており、最盛時は100人以上が硫黄採掘を行っていました。 60年代は石油と世界エネルギー危機のため、各国が積極的に新たなエネルギーを模索しており、本区は付近の噴気孔活動が頻繁で、地底に豊富な地熱エネルギーが含まれるため、当時の経済部能鉱所に地熱エネルギー探査実験場として選ばれましたが、地熱中に含まれる硫黄ガスが多すぎ、地熱井戸が腐食してしまい、また石油危機も解消されたため、70年代後期に地熱井戸の利用は徐々に終了されました。
1985年に陽明山国家公園が設立された後、擎天崗の増加し続けるビジター数と園区レクリエーション場所の増加に対応するため、1990年に元の冷水坑火山爆裂火口横の地熱井戸探査地を整理して冷水坑駐車場とし、その下側に景観涼亭を設置しました。さらに1992年にはこの涼亭が冷水坑ビジターセンターに改築され、ビジターがここで質の高いレジャー体験ができ、大自然に溶け込んで親しむことができるようになりました。
冷水坑は、早期の素朴で鹿の群れが戯れていた場所から、清領となって各種鉱物資源開発が行われ、日本統治時代は温泉として利用され、さらに光復後は地熱探査が行われるという変遷をたどってきました。また、歴代の人々が植物を栽培して生存のために奮闘してきたことも、すべてがこの地区の人々の共同生活の文化的経験を形作っています。陽明山国家公園は冷水坑のこのような文化的経験を守り、後代の子孫がこれらの有形の遺跡と無形の文化経験から、私たちの血液の中に存在する生活経験を学ぶことができるように願っています。(張文清)