硫黄噴気孔
硫黄は軍事上重要であり、当時一部の無法者が勝手に山に潜入し、硫黄を盗掘して火薬の製造を行なっていたため、清朝政府は事態が拡大して騒動が引き起こされることを恐れ、康熙から同治の200年近くにわたり、各朝廷が鉱山の封鎖、採掘禁止の命令を下し、兵を駐留させたほか、毎年2月、5月、8月、11月の4回派兵して山を焼きました。硫黄の盗掘活動には重罰を科して禁止していました。この状況は光緒年間まで続き、それ以降徐々に変わっていきました。まず沈葆禎が開禁を奏請し、光緒13年(西暦1887年)に劉銘伝が硫黄の官営採取開放を正式に奏請して、硫黄採取に関する業務を管理する台湾鉱務総局が設置され、これを以って硫黄採取事業がついに正式に開禁されました。漢人の足跡はこの期間も士林、北投から磺渓に沿って大屯山地区の竹子湖一帯まで広がっていましたが、この地区は硫黄ガスの影響で土地が痩せ、穀物の栽培に不利であったため、当時入山した漢人は山を焼き茶を植えて、山の斜面に茶園を開き、生活してしました。元々この地に居住していたケタガラン族は漢人の移民の同化によって徐々に消えていきました。
日本統治時代には、日本人が本地区の温泉と地熱資源の開発を計画し、大屯山、七星山一帯で人工造林を行い、道路を開き、温泉休憩施設を建設するほか、1935年、日本政府は台湾に国立公園委員会を設立し、観音山、大屯山一帯を「大屯国立公園」とすることを提案しました。これは陽明山国家公園設立の最も初歩的な計画構想でもありましたが、第二次世界対戦の勃発により、この構想は中止となりました。
戦後、さまざまな建設事案が放置され、国家公園の理念も一時棚上げとなりました。1963年になると、政府は陽明山公園と七星山、大屯山および北部海浜地区を合わせて、「陽明国家公園」とする構想を打ち出しましたが、当時は国家公園法がなかったため、この構想は再び延期されました。1981年になって再度提出され、陽明山国家公園の計画範囲が専門の学者と関連機関によって検討された後、1983年1月1日に内政部が実施を公告し、1985年9月16日に陽明山国家公園管理処が正式に設立されました。